ディジタル電子回路の設計遅延時間まとめ

1. 基本的なタイミング概念

1.1 クロック関連の遅延時間

クロック周期 (Clock Period) - T_clk

クロック信号の1周期の時間で、最大動作周波数の逆数。全てのタイミング制約の基準となる重要なパラメータです。

クロックスキュー (Clock Skew) - T_skew

同一クロック信号が異なるフリップフロップに到達する時間差

  • 正のスキュー:遅れて到達する場合
  • 負のスキュー:早く到達する場合
  • 設計目標:±50ps以下(高速回路の場合)

クロックジッタ (Clock Jitter) - T_jitter

クロック信号の理想的な位置からの時間的ばらつき。ランダムジッタとシステマティックジッタに分類され、PLL回路の性能に大きく依存します。

2. フリップフロップ(FF)関連の遅延時間

セットアップ時間 (Setup Time) - T_setup

定義:クロックエッジの前にデータが安定している必要がある最小時間

重要性:データの正確な取り込みを保証。違反すると不定状態やメタステーブル状態が発生

典型値

  • 高速CMOS:10-100ps
  • 標準CMOS:50-200ps

ホールド時間 (Hold Time) - T_hold

定義:クロックエッジの後もデータを保持する必要がある最小時間

重要性:データの確実な保持を保証。違反すると前のクロックサイクルのデータが失われる

典型値

  • 現代のプロセス:通常0ps(設計で調整)
  • 古いプロセス:10-50ps

クロック・ツー・アウト遅延 (Clock-to-Output Delay) - T_cq

定義:クロックエッジから出力が変化するまでの時間

構成要素

  • T_cq_min:最速での出力変化時間
  • T_cq_max:最遅での出力変化時間

典型値

  • 高速FF:20-100ps
  • 標準FF:50-300ps

3. 組み合わせ回路の遅延時間

伝搬遅延 (Propagation Delay) - T_pd

定義:入力変化から出力変化までの時間

分類

  • T_pLH:Low→High遷移の遅延
  • T_pHL:High→Low遷移の遅延

影響要因

  • ゲート構造とサイズ
  • 負荷容量
  • 温度・電圧・プロセスばらつき

汚染遅延 (Contamination Delay) - T_cd

定義:入力変化から出力が変化し始めるまでの最小時間

重要性:ホールド時間制約の計算に使用。グリッチ現象の予測に重要

4. クリティカルパス解析

クリティカル遅延 (Critical Delay)

定義:回路内で最も長い遅延パス

T_critical = T_cq_max + T_logic_max + T_setup
制約条件: T_critical ≤ T_clk - T_skew - T_jitter

タイミングマージン

セットアップマージン

Margin_setup = T_clk - T_skew - T_jitter - T_critical

ホールドマージン

Margin_hold = T_cq_min + T_logic_min - T_hold - T_skew

5. 特殊な遅延時間

5.1 メタステーブル関連

分解時間 (Resolution Time) - T_res

メタステーブル状態から安定状態への遷移時間。確率的に決まる(指数分布に従う)

平均故障間隔 (MTBF: Mean Time Between Failures)

MTBF = exp(T_res/τ) / (f_clk × f_data × τ)

τ:メタステーブル減衰時定数
設計目標:通常100年以上

5.2 非同期信号関連

同期化遅延

  • 2段FF同期化回路:2クロック分の遅延
  • 3段FF同期化回路:3クロック分の遅延(高信頼性用途)

6. 設計時の実践的考慮事項

6.1 プロセス・電圧・温度(PVT)変動

スローコーナー(遅延大)

  • プロセス:Slow(厚いゲート酸化膜、低いキャリア移動度)
  • 電圧:低電圧(VDD - 10%)
  • 温度:高温(125°C)

ファストコーナー(遅延小)

  • プロセス:Fast(薄いゲート酸化膜、高いキャリア移動度)
  • 電圧:高電圧(VDD + 10%)
  • 温度:低温(-40°C)

6.2 設計マージンの確保

推奨マージン

  • セットアップマージン:クロック周期の10-20%
  • ホールドマージン:100ps以上

マージン不足の対策

  • パイプライン化
  • 回路の並列化
  • より高速なライブラリの使用

7. 測定・検証手法

静的タイミング解析(STA)

  • 全パスの遅延計算
  • 制約違反の検出
  • 主要ツール:PrimeTime、Tempus

動的検証

  • シミュレーション
  • 実機テスト
  • タイミング余裕の実測

8. 遅延時間一覧表

8.1 遅延時間の分類と役割

遅延時間 記号 定義 主な用途 典型値
クロック周期 T_clk クロック信号の1周期 基準時間、最大動作周波数決定 1ns〜10ns
セットアップ時間 T_setup クロック前のデータ安定時間 セットアップ制約計算 10ps〜200ps
ホールド時間 T_hold クロック後のデータ保持時間 ホールド制約計算 0ps〜50ps
クロック・ツー・アウト遅延 T_cq クロックエッジから出力変化まで クリティカルパス計算 20ps〜300ps
伝搬遅延 T_pd 組み合わせ回路の入出力遅延 タイミング解析 10ps〜数ns
汚染遅延 T_cd 最小伝搬遅延 ホールド制約計算 5ps〜100ps
クロックスキュー T_skew クロック到達時間差 タイミングマージン計算 ±10ps〜±100ps
クロックジッタ T_jitter クロック位置のばらつき タイミングマージン計算 1ps〜50ps

8.2 制約式まとめ

セットアップ制約

T_clk ≥ T_cq_max + T_logic_max + T_setup + T_skew + T_jitter

ホールド制約

T_cq_min + T_logic_min ≥ T_hold + T_skew

クリティカルパス遅延

T_critical = T_cq_max + T_logic_max + T_setup

タイミングマージン

セットアップマージン = T_clk - T_skew - T_jitter - T_critical
ホールドマージン = T_cq_min + T_logic_min - T_hold - T_skew

8.3 遅延時間の相互関係

┌─────────────── T_clk ───────────────┐ │ │ ┌──────▼──────┐ ┌───────▼──────┐ │ FF (i) │ │ FF (i+1) │ │ │◄──T_setup─┐ │ │ CLK─┤► │ │ │ │ │ Q ──────┼───────────┼────────┤►D │ └─────────────┘ │ └──────────────┘ │ │ ▲ ▼ │ │ ┌─────T_cq─────┐ │ │ │ │ │ │ │ 組み合わせ回路 │ │ │ │ (T_logic) │──────────┘ │ │ │ │ └──────────────┘ │ │ │ └──────────────────────────────────┘

8.4 設計時のチェックポイント

高速設計時の注意点

  • セットアップマージンを十分確保(クロック周期の10-20%)
  • クロックスキューの最小化(専用クロックツリー合成)
  • クリティカルパスの特定と最適化
  • PVT変動を考慮した最悪ケース解析

信頼性確保のポイント

  • ホールド違反の完全な排除
  • メタステーブル対策(同期化回路の実装)
  • 温度・電圧変動に対する十分なマージン
  • クロックドメイン間の適切な同期設計

遅延時間最適化の手法

  • パイプライン化によるクリティカルパス分割
  • 並列処理による処理能力向上
  • 高速ライブラリセルの選択
  • 配線長最適化による遅延削減

9. まとめ

ディジタル回路設計において、これらの遅延時間の理解と適切な制約設定は、回路の信頼性と性能を決定する重要な要素です。特に高速動作が要求される現代の回路では、ピコ秒レベルでの精密なタイミング設計が必要となります。

設計成功のための要点:

  1. 全体的なタイミング戦略の策定:クロック周波数、マージン、PVT変動を総合的に考慮
  2. 制約の正確な設定:セットアップ・ホールド制約を適切に設定し、STAツールで検証
  3. クリティカルパスの管理:最長遅延パスを特定し、必要に応じて回路構造を最適化
  4. 信頼性の確保:メタステーブル対策、クロックドメイン境界の適切な処理

設計フロー:

  1. 要求仕様の明確化(動作周波数、信頼性要求)
  2. クロック計画の策定(クロック分配、スキュー管理)
  3. タイミング制約の設定(SDC制約ファイル作成)
  4. 論理合成・配置配線(ツールによる最適化)
  5. タイミング検証(STA実行、制約違反確認)
  6. 必要に応じた設計修正(構造変更、制約調整)

これらの遅延時間を体系的に理解し、適切に管理することで、高性能かつ信頼性の高いディジタル回路を設計することができます。常にPVT変動と設計マージンを考慮し、実用的で堅牢な回路設計を心がけることが重要です。